趣味の遺伝

2018年09月21日 06:38



夏目漱石の初期作品に「趣味の遺伝」という作品がある。
日露戦争で戦死した兵士に、同じような女性に一目惚れした祖父がいたという短編。
ここでいう趣味は「人となり」に近い意味で使われているのだろうか。
著作権フリーとなっており青空文庫等で読める。



「あいつ」も期せずして私と同じような事をしたり考えていた処があった。



その1.俺は橋の下で拾われた子

子供の頃、父は小学校の教師であったせいか厳しかった。
ガリ版で文字枠を刷ったわら半紙を沢山持って帰ってきたなと思ったら、わくを文字で埋めろ言う。
硬筆の習字と漢字を覚えるという課題だった。
遊びにも行けず毎日嫌と言う程書かされた。

小学校の宿題で自由画があって、友達と一緒に絵を描いた。
友達は黒で山の輪郭を描いて中を緑で塗った。私も同じような事をした。
父が帰ってきて、その絵を見るなり「山にこんな黒い線があるか」と言って叱られた。
その絵は提出できなかった。

こんなにキツく扱われるのは、「俺は橋の下で拾われた子供だからでは無いか」と私は思った。


父は4人兄弟の長男で、学費が要らないからと中学から師範学校に移らされた。
戦後母と結婚したが、安月給でずっと共稼ぎだった。
今と違ってサラリーマンと結婚すれば専業主婦が当たり前の時代だった。
給料も大阪市立の学校なのに、それより安い大阪府の公務員の金額だった。
「金は無い。子に残せるのは教育だけ」と考えていたのだろう。


それは私にもある程度あてはまった。
当時「ガス会社は準公務員」という考え方があり、化学会社に就職した同級生に比べると安月給だった。


小学生5年から進学塾にやって、中高一貫の私学を目指して入試勉強をさせた。
4年生からやるのが普通だったので、特に6年の冬休みは家で私が勉強をみた。
中学入試に浪人はあり得ない。
後の無い戦いだった。

「あいつ」が弟に「俺は橋の下で拾われた子供なんやろか」と言っていたのを、後になって知った。



その2.理系なのに小説を書きたい


高校の進路指導で私は文学部を希望した。
しかし、父に「文学部なら小学校の先生くらいにしかなれないぞ」と言われて、アッサリ撤回した。
小学校といえば給食が大嫌いだった。
今は家畜に餌になっている脱脂粉乳を小学校の給食にしていた時代だった。
先生は児童の手前一緒に食わねばならない。
真っ先にそれが来た。

よく考えてみれば、教師と言っても中学も高校もある。
小学校と言ったのは、私の給食嫌いをよく知っていた父の作戦ではなかったか。

まあ理数科目も現国も同じような成績だったのでどちらでも良かった。


それでも教養部時代には必要の無い英文学や国文学の講義を2年続けて受けた。
小説らしきものも書いたが、研究室の雑誌に載せて貰ったくらいで、
就職するとアイデアが浮かぶような余裕はなかった。


「あいつ」の進路志望に私は一切口を挟まなかった。
理系に行ったのは自分の成績と学校のランクを天秤にかけた結果なのだろう。

「あいつ」は仕事をしながらあんなに沢山の小説を遺した。
仕事をしながら小説のネタを膨らませるという並行作業が可能で、
それを脳内執筆と呼んでいた。

「あいつ」は私の遥か先を行っていた。





関連記事


コメント

    コメントの投稿

    (コメント編集・削除に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)

    トラックバック

    この記事のトラックバックURL
    https://fugaku2.blog.fc2.com/tb.php/2728-9f998d8f
    この記事へのトラックバック